Ⅶ.
ー空の紙コップを片手に震える男
以前、ここでずっと待っているのが嫌になって、隣の子供が寝た頃に、この永遠に見えるほど長く続く廊下の少し先まで散歩をしていた。
こんなものを拾った。
きっと手紙だろう。どこかの少年の恋文だ。私には必要がないものだからお前さんにくれてやるよ。
中には青いインクで綺麗にこう書いてあった
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我が親愛なる太陽から届いた名を持つ君へ
君と出会うまで愛というものが、物語を書いている時に誰彼見られているようなあの感覚とおんなじように、実は僕の中でしか存在しなくて、夢がきっと僕の中で勝手に始まって勝手に終わるものだと思っていた。
何も知らなかったし、何も知ろうとしていなかった。なぜかというとね。
それは、今まで地球の裏側にいたきみを愛することがいつか馬鹿馬鹿しくなってまったからなんだ。
でもね、僕の昔からの記憶は微かで、ほんのすこしの衝撃だけで壊れてしまうほどヤワだったけれど、
君を忘れることはなかった。ずっと会いたい、君の名前を聞かせてほしいと思っていたんだ。
どんな形でだって、どれだけ時間がかかってもいいと、いっそ次の人生で会えればいいとすら思っていた。
でもいま、こんなにもすぐに、こうやって君と同じ席に座って君は僕と話している。
もう理由なんてどうでもいいんだ。宇宙の秩序や真実なんて君の前では一つの形でしかない。
なぜならわかるかい?僕は君を愛しているんだ。それだけで、世界が正しくなったりするのには十分なんだ。
幸せはもっと近くにあった。それはソファーに座る君の隣に転がっていたんだ。指標のない、道筋のない山岳路は、間違った道ではなかった。天国と地獄の間に敷かれた道のさきには、君がいたのだから。
そう、僕は十分すぎるほど、神聖な準備を目撃してきた。
パイロットと雲の上の王国の物語、迷い込んだあちらの世界とを繋ぐトンネル、大天使の臨終、炎の中から見える死体袋。
僕は必死に助けをもとめたけれど、その時にはすでに、馴染みのある星座は夜に引かれて僕の前からいなくなってしまっていた。
それは一体、どう言葉を用意すればいいかわからないほどだった。
木々は夜をしっかりと支えて離さなかった。
僕は今までずっと目撃者だったんだ。机の上の地理学者で、納屋の中の錬金術師だった。
愛を恐れるあまり君はまるでカミナリに撃たれた木のようにして、僕の前に横たわっていた。
だけどさ、目を見てわかるように、君は一人の人間だったんだ。魂がここに、太陽に授けられた名前がある。
僕は君を畏れていたんだ。わかるかな…。畏れ多く、きみの名前はそう、まるで水のように光り輝いていた。
でも君は僕と同じ人間だった。それだけでも奇跡的なんだ。
いつか僕は神様に挨拶をした時、きみとまだ出会えていない現実と、その美しさに全くまいってしまっていた。
神様になんといえばいいのだろうとか、どうすればこの苦しみが君に逢う手はずとなるだろうってずっと考えていた。
でもどうだろうか。神様が現れるほんの直前に、僕はまったくそんなことは忘れてしまっていたんだ。
僕はね、感謝をしたんだ。
僕が君と同じように魂と名前のある存在として、果てしない宇宙の中で同じ星に生まれ、
君と同じ瞬間に生きていることを、僕はめいっぱい感謝したんだ。それはまさに心の底から湧き出てくるようにして、僕の中に幸せが溢れたんだ。きっと会えるんだって思ったさ。心配はいらないんだってね。
だからね、僕は君と同じものとしてこの瞬間に生きているだけで幸せだったっていうのに、こうやって今僕は君の魂に真実を打ち明けている。
一体どんな奇跡が起きたっていうんだろう。
そう、今まで君はいろんな場所を旅してきたのを僕は知っている。
黒い砂浜、君はサボテンで手を切ってしまった。一筋の血が手の甲からスルスル流れ出ていた。城砦ラドニル。君は海から城まで続く両脇を青草で挟まれた白い小道に置かれたベンチで、誰かを待っていた。駅、雑踏。君は恵みを手に押し込もうとするたくさんの子供達に囲まれて熱風と燃えさかる炎の中に足を進めた。夜、南米の海を眺める丘の上。君は無数の矢に打たれながら、何度も何度も立ち上がり、痺れたようによろめきながら私たちにその痕跡と愛を歌ってくれた。眠るアトミック211通り、君はまだうんと若かった。別の場所から来た別の誰かに手を引かれ、彼とともに忘れられた物語たちを目撃した。君は時にパン切り包丁で片手に掴んだ数千の命を切り落とし、夜、裸足で橋まで夢遊病者のように歩いて行った。時に君は、その愛をもってして新郎の髪や皮膚、爪や臓器までを溶かし骨だけにしてあげた。大丈夫、彼は嬉しかったのだ。
僕もいろんな場所に旅に出かけた。蒼の洞窟。そこでは機械仕掛けの竜が洞窟に埋め込まれた教会で心臓がある竜とその山のような体をうねらせて聖戦を始めていた。でも僕にはどっちがどっちかわからなかった。ある場所では誰かが傷を負っているようだった。僕はポッケから真っ白なハンカチを差し出したが、申し入れはついに受け付けられなかった。夜の公園、掴んだ少女の手はドアノブのように硬く丸まっていた。僕は笑う木々の下、少女の前でパズルを組み立てた。組み立てて行くほど、どんどん彼女は眠くなって行く。僕は扉を開き元の世界に戻った。報告書を出す必要があった。白い砂浜、黄色の二枚翼飛行機が潮風で赤褐色に朽ちたベンチの後ろで休んでいた。僕は旅にいかなければいけなかった。雲に巻かれて青い森に囲まれたお城が見えた時には、すでにエンジンは火を吹き、ついに僕は森の真ん中で撃ち落とされた。ある丘の上、遠くに見える砂浜では大勢の人が収穫祭を行なっていて、太鼓が力強く打ち付けられ、優しい巫女の歌声が浜べにひびき、数千の灯籠が気球のように天に高く高く昇って行った。まるで他の誰かが元の場所に帰るようだった。
コンサートホールの最前列。婚約の談義を公式に終えた三日後のことだった。ちょうど舞台と列の間の隙間に祭壇がこしらえてあった。人型の藁が逆さに吊るされ、頭の上には火がつけられた。爆発するように燃える火の中から一本の生き物が現れ。僕の骨を残して全部溶かし切ってしまった。僕は嬉しかった。
遂にここまでも僕を溶かし切ろうとするまでのものが現れたのだ。全ての僕を覆う創造物が溶かし切られ、もう後に残るのは骨の美しさだけで、その美しさをもってしてあちらとこちらが一つになると思ったからだ。
だからもういいんだ。もういい。
ぼくは今まで愛を受け取りたがっていた。
自分の存在が不確かだからだ。君を見つめているようで
その瞳に映る僕の肖像を掴もうと、その声とその心臓を音を確かめるようで
僕はそこに残る確かな自分の残響を捉えようとしていた。
でも僕は到着したんだ。大きな意思が指し示した数々の出来事は君に会うことでやっと目的を果たしたんだよ。そう大きな意思は聖なる血によって僕を洗い流し、君と共にいることを可能にしたのだ。
愛を込めて
メルクス
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