Ⅷ.

 
 

ージェラルミンのケースを抱く目つきの悪い男

太った女店主に押し付けられた合鍵を押し込んで、彼は何週間も前から予約しておいた部屋に陰を落とす。

忘れてしまいそうだ

波の音もきみのことも

まるでもう僕は、どこかにいってしまったイカダを

海の真ん中で探している

北の大地に輝く宇宙を超えて伝わった君を

子供のように握ることはもうできないのかもしれない

雪山にささやくつむじ風のようなその声も、空気を切り裂くハチドリのようなその目も、もう僕にとっては、僕にとっては、小川のほとりに立つ狩人小屋にもみつからない。

もうどこに座っても同じこと。

引きずってきたカバンを窓の近くでついに見放すと、音を立てないよう、その上にそっと腰掛ける。湿った海岸に月がふたつ現れることを待つしずかな夜は、もうどこかにいってしまったようなのだ。

僕はきみに名前を呼ばれる前に何者かになってしまう。きみに口づけする前に何かになってしまいそうだ。終わりの始まりは。始まりの終わりは、こともなく進んでしまう。かれらのうめき声も、オオカミが引きちぎったあとに残った、喉もとに並んだ骨の形も、庭の草原で隣人の娘と引いたピアノの音も、黄色の僕の愛機も、となりではしる愛馬も、ほそい腕に支えられたその軽そうな頭も、積み上げられた本の間に挟まった手紙も、プールも、マンドリンも、雪の中の美術館も、猫も、鍵も。そのなまえも。

ぜんぶ。そうぜんぶさ。ぜんぶはジェラルミンのこのアタッシュケースにはいったまま。

「その。タバコをおひとついただけませんか?。マア、なんて素敵なアッシュトレイ!」

失うものはたくさん、たくさんありすぎてもうどれがが服なのかクスリなのか、歯ブラシなのか分からず、中にしまったまま。

となりに住む年老いた医者が持ってくる気付の酒で全てを思い出すまでは、僕は旅行カバンの上に座って。そう。

何か考えるふりをして、鏡の前まで行くと年老いた自分の肖像が、いつも自分の手で薄くなったその眉毛を描いている。

洗面台のもう落ちそうなところ。ハエは忙しそうに器用な前足で,天秤の片方にゾウのモニュメントを乗せている。

僕は真似をしてアタッシュケースに括り付けられた鍵をひきちぎると、洗面台のすぐ右側にはめられたドアの鍵穴に押し込んでみる。くず鉄が跳ねる音がするとドアは痩せこけた音をたてて廊下を見せつけた。しかしそこにはホコリひとつなく、人のいた気配は微塵にも感じない。クモが廊下をあっちにこっちにと狂ったように壁から壁へ

ドアを閉じてタバコを洗面台に捨てる。

部屋をぐるっと2周するともとのカバンの上に腰掛ける。

学んだはず、学んできたはずなのに…。

(窓の外からネズミをまくし立てる犬の鳴き声と赤子の喚き声が壁をつたって部屋の中に流れ込んでくる。そのちょうどすぐあと。その時。町の外から厳かな鐘の音が響いてきた)

一向に鐘の音は止まない。鐘は力強く、その頭を木に打ちつづける。

しかしどんなに深く潜っても、どんなに高く飛翔しても、それが引き起こされる神聖な準備にぼくは必要とされないだろう。赤いドレスの歌姫は、勝手に歌い始めるだろう。彼女はその舞踏会のシャンデリアのように、熱い視線と金属が弾ける音を見守っている。

決して互いのどちらかを味方とした協力者といったものではなく、お互いの勝利に加担した中立や仲介者というわけでも、捧げられた、血肉の真実に加担しているわけでもなく。ゆらゆらと。

気がつくと、街角にはひとつふたつと街灯が点り始めた。路地には活気が出てきて、羞恥と癇癪に騒ぐ若者が叫きながら昨日すれ違った娘について話している。

論理的に、核心をついて。しかし核心は介する友には伝わらない。その時娘の像は、限りなく強く、街角を曲がる。友は不安になる。かれは心から落ち着く。威厳と自尊心に紛れて、曲がった娘を抱きかかえた話をする。友は心から感心する。しかしかれはもっと落ち込む。

「マアミテ!ホウウラアレワ、エライザジャアナイノ!ミテアノヒト。キット彼女、オカヲオリテキテコウイウノヨ、こんばんは。昨日は月がキレイでしたわねって」

試験管から逃げ出してきたクモが湿った玄関の前で蹲る。ほんの一瞬飽きて、タバコに火をつける。

煙が音の流れ出る窓にぴったり背中をくっつけると、大通りを抜けて、瘴気の漂う脇道に出かけていった。

もう終わったことだったのかもしれない。いやなにが終わったのだろうか。

玄関から少女が出てくる。誰を待つわけでもなく、人の目にさらされながら、脇道に抜けた煙のきた方向をじっと眺めている。その視線は僕の埋まる墓の隣にそっと倒れると、みたこともないようなイリュージョンを披露した。野心は震え、恋心は僕に助けを求めない。しかしそう、何も始まらない。

急に脳天をつかれたように驚いた彼はドアをこじ開けようとする

「助けて!もう駄目だ!僕にはとっても長すぎる!ここから出してくれ!」

狂ったように扉が押し出されると、雷のような音を立てて扉が開く。

目の前で、痩せこけた僧侶が、丁寧に網目の一つ一つを慎重に数えている。

窪んだ目は充血していて、その瞬間を逃すまいと、眼球に向かって焔が立ち上がっているようだった。

右隣の部屋の前では、頬だけがこけた老人が腰を下ろし、それが起こるのをいまかと待ち受けている。前の扉にへばりつくよう首だけを前に突き出し、その顔を一定のリズムで小刻みに震わせている。

「ちょっとあの...あのですね。実は医者を...」

彼が話しかけると、老人は喋る石像のように口だけを動かし、ぶっきらぼうに言った。

「きみ。ちょっときみ。話しかけないでくれないか!いまかもしれない。そう。いま君と話そうと目を離したその瞬間に、扉はついに開いてしまうかもしれないのだよ。この27年間、扉の前でずっと待っておるが、まだ目撃できていない。天使が、扉を音を立てずに開けるんだよ。その時にわしはこの扉の前でそれを目撃しなければいけないんだ。だからこうして辛抱強く、ここで待って居るわけだよ。わかったらさっさといってくれないか。私は忙しいんだ!」

隣の部屋では、すでに“それ”に立ち会った少年が3人分のお皿を一つ一つ丁寧に洗っている音がする。